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今月の1シーン
今月の1シーン:82
2010年10月01日

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お釈迦さまゆかりの地  前正覚山(ぜんしょうかくざん)

お釈迦さまは六年間の苦行を終え、スジャータの乳粥の供養を受けられました。そして、心身をととのえられたお釈迦さまは、前正覚山(ぜんしょうかくざん)に向かわれました。前正覚山とは、お釈迦さまが「正覚」される「前」に登られたのでこの名がつけられました。土地の人達はドンケスリーと呼んでいます。
前正覚山の中腹に留影窟(りゅうえいくつ)があります。お釈迦さまはここで禅定に入ろうとされたのですが、山が大きく揺れ、岩がゴロゴロと落ちてきて、瞑想を妨げたといいます。お釈迦さまは瞑想に適していると思って選んだ洞窟も、禅定にかなった場所ではないと下山しようとされたところ、その洞窟に住む龍が現れて「どうかこの場所で悟りを開いてください」とお願いしました。
しかし、お釈迦さまは「影」を「留」めて下山されたので、以来ここを留影窟と呼ぶようになりました。




フラッシュ動画について


1枚目
前正覚山(パルクー河から望む)
前正覚山(パルクー河から望む)



2枚目
頂上(前正覚山からブダガヤを望む)
頂上(前正覚山からブダガヤを望む)
頂上からは、はるかに尼連禅河とマダラン河が望まれ、ウルベーラ村のスジャータの丘や苦行林は、その河と河にはさまれたところにあります。



3枚目
ストゥーパー跡と留影窟(りゅうえいくつ)
ストゥーパー跡と留影窟(りゅうえいくつ)
前正覚山にはアショカ王の建てたストゥーパー跡がいくつもあります。現在は風化したレンガと荒々しい岩石に埋もれて、わずかにかつての面影がしのばれるだけです。

写真中央の白い建物はチベット寺院です。この寺を入った奥に洞窟があり、留影窟と呼ばれています。
洞窟は入口が高さ1メートル、奥行き間口ともに5メートル位の大きさです。



4枚目
留影窟にある苦行像
留影窟にある苦行像
前正覚山の留影窟が禅定にかなった場所ではないと下りられたお釈迦さまは、
瞑想に適した場所を探しながら一歩一歩現在のブダガヤに歩いていかれました。



今月の写真の説明/文責・青森直樹
参考資料/『お釈迦さまの地 インド』 文・写真 久保尚志 すねいる発行



だんだんと涼しくなり親鸞聖人の報恩講の季節が近づいてきました。
DVD「親鸞伝」は、報恩講で親鸞聖人を偲ぶ機会に本堂余間に掛けられる「御絵伝」の一つ一つを解説しています。

DVD 「親鸞伝 上」 好評発売中
DVD 親鸞伝 上 好評発売中

DVD 「親鸞伝 下」 好評発売中
DVD
親鸞伝 下 好評発売中

親鸞聖人シリーズ DVD作品一覧


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2010年09月01日

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梵天勧請(ぼんてんかんじょう)の地 ブダガヤ

ブダガヤで悟りを開いた後、お釈迦さまはその深い喜びを味わいながら、七週間ほど静かに座っていました。
そしてお釈迦さまはお考えになりました。「私が悟った真理は非常に奥深く極めて難しい。たとえ説き聞かせても理解できる人はほとんどいないだろう。私は法を説かないでおこう。」
その時、神々の代表である梵天(ぼんてん)が、お釈迦さまの前にあらわれて申しました。「真理がいかに難しくとも、それを理解できる者も必ずいるはずです。どうかみ教えをお説きください。」
梵天は、何としてもその法を説いてくれるよう、お釈迦さまに何度も懇願し説法を勧めるのです。
「梵天の勧請」は、お釈迦さまの心を強くゆり動かしました。そしてお釈迦さまはその場所から立ち上がり、多くの人々がいるベナレス(サールナート)へと伝道の旅に向かわれました。



フラッシュ動画について


1枚目
ブダガヤ大塔の夕日
ブダガヤ大塔の夕日(スジャータ村より撮影)
およそ2500年前の十二月八日、お釈迦さまは現在のブダガヤ大塔西側にある菩提樹の辺りに座られ、七日間の瞑想の後、悟りを開かれました。



2枚目
降魔成道(ごうまじょうどう)
降魔成道(ごうまじょうどう)
お釈迦さまは悪魔との戦いに打ち勝って、ついに悟りを開かれました。
ブダガヤ大塔の内部内陣には、黄金に輝く降魔成道スタイルのお釈迦さまの像が安置されています。



3枚目
梵天の勧請(ナーガルジュナ・コンダ考古博物館、3世紀)
梵天の勧請(ナーガルジュナ・コンダ考古博物館、3世紀)
お釈迦さまの優れた教えが、このままでは人々に知れずに埋もれてしまうのを察した梵天は、お釈迦さまを取り囲み説法するように懇願しました。



4枚目
お釈迦さまの足
お釈迦さまの足
お釈迦さまは梵天の勧請によって人々に法を説くことを決心され、サールナートへと歩き始めました。


今月の写真の説明/文責・青森直樹
参考資料/『お釈迦さまの地 インド』 文・写真 久保尚志 すねいる発行




大乗仏教の教えを親しみやすい物語の形式で説いた『維摩経(ゆいまきょう)』を映像化。
維摩居士(ゆいまこじ)と文殊菩薩の対論によって明らかになる、何ごとにも執われない「さとり」の境地をご覧ください。

DVD 「東洋の精神(こころ) 〜維摩のおしえ〜」
DVD
「東洋の精神(こころ) 〜維摩のおしえ〜」 好評発売中



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2010年08月01日

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スジャータの乳粥(ちちがゆ)

お釈迦さまはブダガヤで六年間の苦行生活を終え、「尼連禅河(にれんぜんが)」で汚れきった体を洗い、休んでおられました。
そこに、近くの村の少女スジャータが通りかかりお釈迦さまに乳粥(ちちがゆ)を差し出します。お釈迦さまはその乳粥を食べ、衰えた体力を回復されたのでした。
ブダガヤの大塔から「尼連禅河」を歩いて渡ると、お釈迦さまに乳粥を供養したスジャータが住んでいた村があります。



フラッシュ動画について


1枚目
スジャータ村(セーナ村)
スジャータ村(セーナ村)
ここはかつてお釈迦さまに乳粥を供養したスジャータが住んでいた村です。
レンガで造った民家が数件ある小さな村です。



2枚目
ストゥーパ
ストゥーパ
スジャータ村にはストゥーパがあり、お釈迦さまに関係する遺跡を示しています。



3枚目
乳粥を供養するスジャータの彫刻(サールナート出土)
乳粥を供養するスジャータの彫刻(サールナート出土)
これはニューデリーの博物館に展示されている五世紀頃に製作された彫刻で、お釈迦さまに乳粥を供養するスジャータが刻まれています。
中央上段(左の写真)に壺を持っているスジャータがいます。右の写真はスジャータの拡大写真です。



4枚目
乳粥(ちちがゆ)
乳粥(ちちがゆ)
乳粥とは、牛乳の中に米と、はちみつ、砂糖、ツチショウガ、ココナッツを入れて炊いたものです。
村の人たちに乳粥のことを聞くと、楽しそうに作ってくれました。
現在でもブダガヤの人達は、2000年前のレシピを作っています。


今月の写真の説明/文責・青森直樹
参考資料/『お釈迦さまの地 インド』 文・写真 久保尚志 すねいる発行




 「くもの糸」は、芥川龍之介の原作に、
宮地廓慧が仏教の立場から続編を書きたしたものです。
カンダタが、地獄に降りたお釈迦さまに導かれ、浄土に救われる様子を描いています。

DVD くもの糸
DVD 「くもの糸」 好評発売中


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2010年07月01日

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お釈迦さま 説法の地  サヘト・マヘト


「祇園精舎の鐘の音は、諸行無常の響きあり」で知られる祇園精舎は、当時のコーサラ国の首都、舎衛城にあります。サヘト・マヘトのサヘトとは祇園精舎、マヘトとは舎衛城のことで、お釈迦さまは三十五歳で説法活動を始めてから涅槃に入られるまで、四十五年の間の二十三年をここで過ごされました。
お釈迦さまの度重なる布教活動によって、コーサラ国の人々は仏教に帰依していきました。



フラッシュ動画について


1枚目
舎衛城(マヘト)
舎衛城(マヘト)
舎衛城には給孤独(スダッタ)という長者がいて、商用でマダカ国の王舎城を訪れた時、お釈迦さまに会い熱心な仏教信者になりました。



2枚目
祇園精舎の寄進(インド博物館・バールフットの欄楯)前二世紀
祇園精舎の寄進(インド博物館・バールフットの欄楯)前二世紀
カルカッタにあるインド博物館にバールフットの大塔の欄楯があります。
その欄楯の彫刻には、給孤独長者がジェータの森を黄金をしきつめて買い取っている場面が彫られています。写真中央に立っている二人は、二人とも給孤独長者ですが、写真の下の給孤独長者は手で合図をしています。真ん中の給孤独長者は土瓶を持って木に水をかけ、無事に買い取ったことを示しています。
その右側にはリヤカーから黄金を降ろし、背中に乗せて運ぶ人や、座って黄金を敷きつめている様子が描かれています。



3枚目
祇園精舎(サヘト)
祇園精舎(サヘト)
給孤独長者はお釈迦さまをお迎えするために祇園精舎を建て寄進しました。
もともとこの森はパセーナディ王の太子、ジェータの持ち物で、ジェーター園、漢訳では「祇陀園」と呼んでいます。その祇陀園に給孤独長者がお釈迦さまの精舎を建てるため、ジェータから買い取りました。それ以後、ここを祇樹給孤独園精舎と呼ぶようになり、略して祇園精舎となったのです。



4枚目
菩提樹
菩提樹
この菩提樹は給孤独長者が精舎寄進の時に植えたと伝えられています。


今月の写真の説明/文責・青森直樹
参考資料/『お釈迦さまの地 インド』 文・写真 久保尚志 すねいる発行




言葉だけでは表現しきれない「二河白道の譬え」を映像化。
DVD 「二河白道  善導大師 信のめざめ」
DVD 
「二河白道  善導大師 信のめざめ」 好評発売中


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2010年06月01日

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お釈迦さま 説法の地  ヴァイシャーリー


お釈迦さまがサールナートで五人の比丘に法を説かれ、仏と法と僧の三宝が整い、仏教教団が形成されました。
それ以後、四十五年間お釈迦さまは、ラージギルを始め、ヴァイシャーリー、サヘート・マヘート、サンカーシャ等、布教伝導の旅を続けられたのです。
インド各地へ布教の旅に出られたお釈迦さまは、かつての古代都市の一つ、ヴァイシャーリーにもよく立ち寄られました。ヴァイシャーリーはマガタ国の隣国でヴァッチ国の首都でした。
ヴァイシャーリーでのお釈迦さまの説法の様子は、サンチーにある仏塔の北門の浮彫に残されています。



フラッシュ動画について


1枚目
ヴァイシャーリー
ヴァイシャーリー
パトナからガンジス河を渡り、支流のガンダック河の上流約三十五キロメートルの所に、リッチャビ族のヴァイシャーリーの古代都市遺跡があります。
往時はヴァッジ国として富み栄えていました。



2枚目
アショカピラー
アショカピラー
その一角に僧院跡があり、そこにアショカピラーが建っています。2300年前、アショーカ王が建てたものです。
その上部には一頭のライオンが飾られています。かつて数多く建てられたアショカピラーも、ライオンが飾られているのはこの一本と、ラウリア・ナンダンガルの二本だけになってしまいました。



3枚目
猿王奉蜜(サンチー北門)
猿王奉蜜(サンチー北門)
ヴァイシャーリーでのお釈迦さまの様子は、サンチーにある北門の浮彫に残されています。この彫刻は猿がお釈迦さまに蜂蜜を供養している所です。
二匹の猿のうち、左側が蜂蜜入の鉢を菩提樹で表わされたお釈迦さまに差し出し、右側の猿は、受け入れられたのを見て喜んでいる様子を表しています。
これらは、お釈迦さまの教えが猿にまで及んだことを示しています。



4枚目
宮殿跡
宮殿跡
ここはヴァイシャーリーの宮殿跡です。
お釈迦さまご在世の間は、商業都市をして富み栄え、経典では、7700の宮殿が、7700の重閣が、7700の遊園が、7700の蓮池があったと記されています。これらの遺跡は、今は大平原の中に埋もれて往時を知るすべもありませんが、レンガの遺構のみが所々に発掘されています。
お釈迦さまが入滅された百年後、第二回目の経典結集がこの地で行われたことでも知られています。


今月の写真の説明/文責・青森直樹
参考資料/『お釈迦さまの地 インド』 文・写真 久保尚志 すねいる発行




新発売
DVD「二河白道 善導大師 信のめざめ」
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「二河白道  善導大師 信のめざめ」


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2010年05月01日

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お釈迦さま 初転法輪の地 サールナート

ブダガヤで悟りを開かれたお釈迦さまは、人々に法(真理)を説く為に、ベナレス郊外のサールナート(鹿野苑)に向かいました。
そこにはかつて苦行生活をともにしていた五人の修行者が待っていて、お釈迦さまに対して「ゴーマタ」や「きみよ」と言って話かけてきました。
その時、お釈迦さまは五人の修行者に、「修行者らよ。如来に呼びかけるのに「ゴーマタ」や「きみよ」という呼びかけをもって話しかけてはならぬ。如来は尊敬さるべき人、正覚者である。私は如来になったのだ。修行者ども、耳を傾けよ。」と法を説き聞かせました。

この最初の説法のことを「初転法輪(しょてんぼうりん)」といいます。
「転法輪」とは「法の輪を転がす」という意味で、真理の言葉が、車輪のように進むことに譬えたものです。
初転法輪によって、お釈迦さまの悟った法(真理)が、初めて人々に説かれました。



フラッシュ動画について

1枚目
ガンジス河の夜明け
ガンジス河の夜明け
ベナレスにはガンジス河が流れ、夜明け前には沐浴する人がたくさん訪れます。



2枚目
ガンジス河の修行者たち
ガンジス河の修行者たち
ガンジス河のガートには、沐浴をした後に瞑想をする修行者たちがいます。
今も昔も変わらないガンジス河の流れと共に、生き続ける人々の姿を見ることができます。



3枚目
サールナートの迎仏塔
サールナートの迎仏塔
ベナレスから北西10キロばかり離れたサールナートに、迎仏塔(げいぶつとう)が建っています。
迎仏塔は、かつてブダガヤの苦行林で行を共にしていた五人の修行者が、お釈迦さまをお迎えした場所です。
640年頃、玄奘が訪れた時には、レンガ造りのストゥーパーが建っていて、お釈迦さまを迎えたという記念碑があったということです。



4枚目
初転法輪像下部(サールナート考古博物館・同出土・5世紀)
初転法輪像下部(サールナート考古博物館・同出土・5世紀)
サールナートから出土した初転法輪像の一部です。
写真の右側から五人の修行者と、左端に母と子が合掌しています。
中央にある丸いのが法輪を表し、その左右に鹿がいます。
お釈迦さまの説法が動物まで及んだことを示しています。


今月の写真の説明/文責・青森直樹
参考資料/『お釈迦さまの地 インド』 文・写真 久保尚志 すねいる発行




親鸞聖人御誕生八百年を記念して、昭和48年4月に高倉会館において「道念」の講題で講演されたものを収録。
CD法話  金子大榮
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「苦悩の人生」 金子大榮 好評発売中


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2010年04月01日

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お釈迦さまの誕生の地 ルンビニー

むかしも むかし 三千年
花さきにおう 春八日(はるようか)
ひびきわたったひと声は
天にも地にも 我ひとり

この歌詞は花まつりの歌の一節です。
4月8日は花まつりです。花まつりは灌仏会(かんぶつえ)や降誕会(ごうたんえ)ともいい、お釈迦さまの誕生を祝う行事です。
お釈迦さまは、木々の茂るルンビニー園、現在のネパールの
西部にお生まれになりました。
生まれたばかりのお釈迦さまは、七歩あるいて右手をあげ「天上天下唯我独尊」と、言われたと伝えられています。
このお釈迦さまの一声は、「この世」に誰とも代わることのできない、尊い自分を見出す事の大切さを教えてくださいました。

ルンビニーの地図
ルンビニーの地図


フラッシュ動画について

1枚目
ルンビニー
ルンビニー
ネパールの
西部にあるルンビニーがお釈迦さまの生誕地です。
今からおよそ2500年前、マヤ夫人がルンビニー園を訪れた四月八日、お釈迦さまは生まれました。
名前はゴーマタ・シッダールタと名づけられました。



2枚目
マヤ堂(ルンビニー)
マヤ堂(ルンビニー)
この写真はお釈迦さまのお母さん、マヤ夫人をお祀りしたマヤ堂です。
マヤ堂の横には大きな菩提樹があります。
マヤ夫人は出産のため実家に向かいましたが、その途中、ルンビニーでお釈迦さまがお生まれになりました。



3枚目
釈尊誕生(マヤ堂内)
釈尊誕生(マヤ堂内)
ルンビニーのマヤ堂には、ビルマ政府から寄贈されたご本尊が安置されています。
これには、お釈迦さまがマヤ夫人の右脇から生まれところが刻まれています。
右側で右手を上げて木の枝をつかんでいるのがマヤ夫人、足元には生まれたばかりのお釈迦さまが立っています。

写真 久保尚志(撮影日 1981年12月)
現在のルンビニー園と景色が異なっているため、過去の写真を掲載しました。



4枚目
花まつり
花まつり
日本では四月八日に、花まつりの行事が各地で行われます。
誕生仏に甘茶をそそぎ、お釈迦さまの誕生をお祝いします。


今月の写真の説明/文責・青森直樹
参考資料/『お釈迦さまの地 インド』 文・写真 久保尚志 すねいる発行


桜が咲き始め、4月8日の「花まつり」が近づいてきました。
新作DVDの「
ケチケチ長者の物語 ~祇園精舎の花まつり~」は、お釈迦さまの誕生をお祝いする「花まつり」の物語です。
作品にはたくさんの歌が多く入っておりミュージカルふうに、またコミカルに仕上げ、子供から大人まで楽しめます。
DVD 「ケチケチ長者の物語 ~祇園精舎の花まつり~」
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ケチケチ長者の物語 ~祇園精舎の花まつり~」 好評発売中


仏教が現代に問いかけるものは何か。
釈尊の生涯を辿りつつ、その教えと経典、教団の発展・伝播を語りながら、現代における仏教の役割を述べたCD。
CD「仏教入門」
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仏教入門」 好評発売中


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2010年03月01日

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南方仏教の地 ナーガールジュナ・コンダ(龍樹菩薩ゆかりの地)

紀元前三世紀頃、インドのマウリア王朝のアショカ王は、全インドを統一しました。
多くの犠牲を払った激しい戦いによって統一を実現したアショカ王は、とくに仏教の平和主義に共鳴して、深く仏教に帰依しました。
アショカ王がお妃さまの故郷(サンチー)に仏塔を建て仏教を広めて以来、仏教は次第に南に広がっていきました。
インドの南方にある、アンドラ地方のナーガールジュナ・コンダには仏教遺跡が数多く残っています。
ナーガールジュナとは龍樹、コンダとは丘という意味で、大乗仏教を思想的に完成させた龍樹菩薩(150~250年頃)のゆかりの地です。

ナーガールジュナ・コンダの地図
ナーガールジュナ・コンダの地図


フラッシュ動画について

1枚目
ナーガールジュナ・サガル
ナーガールジュナ・サガル
1965年、クリシュナ河をせき止めて作ったナーガールジュナ・サガルダムが完成し、ナーガールジュナ・コンダは水中深くに沈んでしまいました。
写真は、かろうじて水没から免れたナーガールジュナ・コンダの丘です。(現在は島になっています。)
この島に、遺跡の一部と発掘品が移されました。


2枚目
マハー・チャイティヤ
マハー・チャイティヤ

ナーガールジュナ・コンダには、マハー・チャイティヤと呼ばれる直径二十七メートル程の大きなストゥーパーがありました。
このストゥーパーは、信心深い王様の妹、チャームタ・シュリーが仏教徒のために寄進したものです。
写真の白い柱は、アーヤカ柱といいます。


3枚目
アーヤカ柱
アーヤカ柱

アーヤカ柱には文字が刻まれています。
「初代の王の妹、チャームタ・シュリーは彼女の実家や、嫁ぎ先の王家の人々の過去・現在・未来の回向と、現世と来世の利益安楽のため、そして一切衆生の利益安楽のために、このストゥーパーを寄進した。」


4枚目
仏立像(シンハラビハラ)
仏立像(シンハラビハラ)

ナーガールジュナ・コンダには、仏立像(シンハラビハラ)が立っています。
この写真の仏像は複製ですが、当時のものは島に建設されたナーガールジュナ・コンダ考古博物館に展示されています。
古くはバールフットの大塔(前二世紀)、サンチーの初期の大塔(前一世紀)、アマラヴァーティの初期の大塔(一世紀頃)の欄楯や塔門に施されている彫刻には、お釈迦さまの姿を菩提樹や仏足、仏塔、傘などで表していました。
しかし、二世記頃から直接人間の姿で表すようになります。
そして、礼拝の対象が今まで塔や菩提樹であったものが、仏像への礼拝に変化していきました。


今月の写真の説明/文責・青森直樹
参考資料/『お釈迦さまの地 インド』 文・写真 久保尚志 すねいる発行



だんだんと暖かい日が続き、4月8日の「花まつり」が近づいてきました。
新作DVDの
「ケチケチ長者の物語 ~祇園精舎の花まつり~」は、お釈迦さまの誕生をお祝いする「花まつり」の物語です。
作品にはたくさんの歌が多く入っておりミュージカルふうに、またコミカルに仕上げ、子供から大人まで楽しめます。


ケチケチ長者の物語 ~祇園精舎の花まつり~
ケチケチ長者の物語 ~祇園精舎の花まつり~


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2010年02月01日

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アショカ王

仏教に帰依したアショカ王は、古代インドの王です(紀元前268年頃から紀元前232年頃)。
お釈迦さまによって興された仏教は、釈迦入滅後およそ130年に、アショカ王の仏教帰依により全インドに広がりました。
アショカ王は釈迦誕生の地を訪れ、その証としてストゥーパや石柱を建てました。その石柱に刻まれていた文章に、「ここがお釈迦さまの誕生の地である」や「ここはお釈迦さまの聖地である」、「お坊さんは仏教の戒律を守るように」と書かれていました。

フラッシュ動画について

1枚目

サンチー(南門)
アショカ王のお妃さまにデヴィ夫人がいました。デヴィ夫人はこのサンチーの近くの出身です。当時ここはインド南方の主要街道の街であり、全インドを統治したアショカ王も立ち寄りデヴィ夫人と出会い第一の妃にしました。その後、アショカ王とデヴィ夫人との間にマヒンダという子が生まれました。マヒンダはスリランカに仏教を伝えた人です。

2枚目

ラウリア・アララージのアショカピラー(石柱)
このアショカピラーは、建てた当時の姿を留めている一つです。仏教に帰依したアショカ王がインドを統治した政策が書かれています。
内容は、「不殺生(生き物を殺さない)。インド各地に道路の整備や、病院の建設、井戸、休息所などを作った。父母や親族、友人に対して敬愛。仏教以外の諸宗教の平等。バラモンや沙門(出家者)、老人、奴隷、貧者に対しても思いやりを持つように。」と書かれています。


3枚目


サルナートのアショカピラー(石柱)
サルナートは、お釈迦さまが5人の比丘に、最初の教えを説いた所(初転法輪)です。石柱には8行の文章で、
「比丘(男のお坊さん)、比丘尼(尼さん)で戒律を破るものは白い服を着て精舎を出て行かなければならない。」と書かれています。

サルナート博物館には、石柱の頭部に飾っていた四方に向かって座っているライオンの像があります。この頭部はインドの国旗や紙幣のデザインに使われています。


4枚目

ルンビニのアショカピラー(石柱)
ここはお釈迦さま生誕の地「ルンビニ」です。このアショカピラーに書かれていた文章によって、ここがお釈迦さまの誕生の地であることが確定しました。

マヤ夫人が、ここでお釈迦さま(ゴータマシッダルタ)をお生みになりました。4月8日はお釈迦さまの誕生を祝う「花まつり」です。

文/久保雅志
参考資料/『お釈迦さまの地 インド』 文・写真 久保尚志 すねいる発行

2010年01月01日

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お釈迦さまの遺跡 ケッサリヤ(ケサリヤ)


インドのバイシャリから約55キロメートル北上した所に「ケッサリヤ」と言う所があります。ここには、お釈迦さまの骨を安置した世界最大と言われるストゥーパが1999年頃に発掘され姿を現しました。
ストゥーパとはお釈迦さまの遺骨や遺髪などを埋めて土を盛り、表面をレンガや石で固めて構築した仏塔(墓)の事です。
このストゥーパを建てたのは、お釈迦さまが亡くなりおよそ200年後、インドを統一したアショカ王が建てたといわれています。
高さ45メートルで9層になっており上から見ると蓮の花の形になっているようです。
このケッサリヤでお釈迦さまは80歳の時、バイシャリからクシナガラに行く途中で、バイシャリの村人に鉢を形見として渡し、別れを惜しんだ場所であるといわれています。


フラッシュ画像について

1枚目

ケッサリヤを訪れた時は、雨期で洪水が起きたため、この遺跡から5キロメートル程離れた所からバスを降り、リキシャや小舟を乗りかえストゥーパを目指しました。
高さ45メートルもあるので、遠くからでもストゥーパの位置はわかります。


2枚目

ストゥーパの至る所に「龕(がん)」と言うくぼみがあります。
その「龕」の中に成道像、瞑想像、初転法輪像、降魔成道像など、等身大のお釈迦さまの像が安置しています。
ストゥーパの発掘はまだ半分も進んでいないため、何体あるのか今のところ不明です。


3枚目

お釈迦さまの像は、8世紀~12世紀頃にイスラム教の侵攻にあい、(遇像崇拝しない)その際に頭部や上半身が破壊されました。(写真は降魔成道像。)

4枚目

現在発掘されているのはストゥーパですが、この森全体が大きな僧院跡なのでしょう。
遺跡の全体像はまだまだ発掘途中でわからないのですが、インドのボパール近郊にある、サンチーのような素晴らしいストゥーパや僧院があったのかもしれません。

写真・文 久保雅志


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2009年12月01日

お釈迦さま成道の地 ブダガヤ

12月8日はお釈迦さまが悟りを開かれたことをお祝いする成道会(じょうどうえ)です。お釈迦さまは12月8日にインドのブダガヤで悟りを開かれました。


フラッシュ画像について

1枚目
ブダガヤ

ブダガヤ
お釈迦さまが悟りを開かれたこの場所はのちにブダガヤ(仏陀の町)といわれ、仏教における最大の聖地となりました。
ブダガヤは修業に向いている静かな場所でした。多くの行者がこの地に集まり互いに行に励んでいました。ここにはナイランジャーナ河(尼連禅河)が流れ、堤には木々がおい茂り、行者がたたずむには格好の場所だったといいます。

2枚目
ブダガヤの大塔
ブダガヤの大塔
お釈迦さまが悟りを開かれたブダガヤには、五十メートルを越す大きな石の塔が立っています。

3枚目
お釈迦さまの像

お釈迦さまの像
ブダガヤの大塔の西側に、黄金に輝く降魔成道(ごうまじょうどう)スタイルの仏陀像が安置されています。

4枚目
金剛法座

金剛法座
ブダガヤの大塔西側には大きく枝を広げた一本の菩提樹が立っています。その根元には金剛法座(こんごうほうざ)と呼ばれる長方形の石が安置され、ここでお釈迦さまが悟りを開いたことを伝えています。
金剛法座と呼ばれているのは、あらゆる障害をも粉砕することを金剛石にたとえた意味といわれています。



今月の写真の説明/文責・青森直樹
参考資料『お釈迦さまの地 インド』 文・写真 久保尚志 すねいる発行



仏教が現代に問いかけるものは何か。
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2009年11月01日

親鸞聖人の入滅

親鸞聖人は弘長2年(1262)11月28日、京都の善法院にて90歳で亡くなりました。
その様子を『御伝鈔』には、「口に世事をまじえず、ただ仏恩のふかきことをのぶ。声に余言をあらわさず、もっぱら称名たゆることなし。(略)ついに念仏の息たえましましおわりぬ。」と伝えています。
翌日、親鸞聖人の柩を載せた輿は善法院を出て鴨川をこえ、東山の麓、鳥辺野の南のほとりにある延仁寺に運ばれました。
そして、親鸞聖人のご遺体は静かに荼毘(火葬)にふされました。悲しみをこらえ、最後の別れを告げられる人々の心の中に、親鸞聖人のありし日のみ教えが一つ一つよみがえってくるのでした。

如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし


フラッシュ画像について

一枚目
洛陽遷化(らくようせんげ)

洛陽遷化(らくようせんげ)
「御絵伝」下巻 四幅目 第六段 第十八図
弘長二年、親鸞聖人90歳の時。聖人は京都押小路の南、万里小路より東、尋有僧都の善法院で病に伏せられました。そして、頭北面西右脇に臥し、遂に念仏の息を静かに閉じられました。
絵画 橘 昭信

二枚目
親鸞聖人の荼毘所跡

親鸞聖人の荼毘所跡
右の写真
京都市の東山から山科にぬける醍醐道を600メートル進むと右側に延仁寺(京都市東山区今熊野)があります。大谷派では、延仁寺正面の駐車場より北に坂を上った所を親鸞聖人の荼毘所としています。この地に1883年(明治16)東本願寺21代厳如上人の命により荼毘所が設けられています。
左の写真
本願寺派では、京都市東山区五条橋東の大谷本廟東北の飛地境内に「親鸞聖人奉火葬之古跡」の石碑があり、その地を荼毘所と推定しています。
親鸞聖人の荼毘所跡については「
洛陽散策」で紹介しています。

三枚目
葬送荼毘(そうそうだび)

葬送荼毘(そうそうだび)
「御絵伝」下巻 四幅目 第六段 第十九図
親鸞聖人を載せた輿は、東山の麓、鳥辺野の延仁寺へ運ばれ、荼毘にふせられました。集まった人々は聖人との別れを悲み涙を流している場面です。
絵画 橘 昭信

四枚目
本廟創立(ほうびょうそうりつ)

本廟創立(ほうびょうそうりつ)
「御絵伝」下巻 四幅目 第七段 第二十図
文永九年、親鸞聖人が亡くなられた十年後、末娘の覚信尼が大谷の墳墓を改め、吉水の北の辺りに移し、ご影像を安置した廟堂の様子です。
絵画 橘 昭信


今月の写真の説明/文責・青森直樹


DVD「親鸞伝」は、報恩講で親鸞聖人を偲ぶ機会に本堂余間に掛けられる「御絵伝」の一つ一つを解説しています。
DVD「親鸞伝」上巻
DVD「親鸞伝」上巻
DVD「親鸞伝」下巻
DVD「親鸞伝」下巻

親鸞聖人シリーズ DVD作品


恩徳讃を収録したCD
仏教讃歌

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2009年10月01日

若き親鸞聖人の苦悩
親鸞聖人が比叡山で修行に励んでいた頃、赤山明神にて、女性との出会いがあったと『親鸞聖人正明伝』が伝えています。この出来事は実際の事であったかわかりませんが、26歳の若き親鸞聖人が抱えていた苦悩を示しています。


フラッシュ画像について

一枚目
赤山明神
赤山明神
親鸞聖人とお弟子は都から比叡山の麓、赤山明神に立寄りました。すると女が現れ、鈴をころがすような声で「お坊さん達、お坊さん達はどこにいかれるのでしょうか」と声をかけます。

二枚目
「一切衆生 悉有仏性」

「一切衆生 悉有仏性」
女は「どうか、山にお連れください」と親鸞聖人にお願いしますが、女人禁制の掟を理由に断ります。
そうすると女は「伝教大師ほどの知恵者が「一切衆生 悉有仏性」との経文をご存じなかったのでしょうか。いや、どうして男と女の区別などなされるものですか。それとも、山には鳥、獣に至るまで女は住んでいませんか。一切の衆生をお救いくださるみ仏の教えも嘘でございましたか。ああ情けないこと。」と言って池の中へ身を投げてしまいました。

三枚目
女から龍神へ

女から龍神へ
先ほどの女が龍神に姿をかえて池の中から現れました。

四枚目
龍神の玉

龍神の玉
龍神は親鸞聖人に向かって言いました。「この玉をあなたに贈りましょう。願わくばこの玉を布に包まず、弘く世を照らす玉としてください。いつか山の女人禁制がとけ、女人もみ仏に救われるその日のくるのを楽しみにこの池の底で待っています…。」と言い終わると玉を手渡し、池の底へと沈んでいきました。
玉を受け取った親鸞聖人は「あの女の言っていることは間違っていない。女にも仏性があると言った。み仏のお慈悲に、男と女の区別があってよいものだろうか…」とつぶやきます。その後、親鸞聖人は90歳で亡くなるまで、多くの民衆に念仏の教えを説き、『教行信証』を著されます。



今月の写真の説明/文責・青森直樹
出典  『親鸞聖人正明伝』巻一上


この親鸞聖人と女性との物語は、DVD作品「六角告命(ろっかくごうみょう)」があります。

この他の「親鸞聖人DVD作品」はこちら

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2009年09月01日

祖師讃仰
だんだんと涼しくなり親鸞聖人の報恩講の季節が近づいてきました。それぞれの家のお内仏(仏壇)、お寺の本堂でも、お仏具をお磨きし、美しく荘厳して報恩講をお勤めします。報恩講とは、親鸞聖人の恩徳に感謝して年に一度勤修される、浄土真宗で最も大切な祖師を讃仰する行事です。

フラッシュ画像について

一枚目
親鸞聖人
親鸞聖人
如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし

これは親鸞聖人が八十五歳の時に作られた和讃(正像末和讃)の一首です。恩徳讃として親しまれ、報恩講や日常のお勤めに唱和します。
晩年の親鸞聖人の報恩の思いが込められていて、それに感動した多くの先達によって今に受け継がれてきました。

二枚目
親鸞聖人ロケ映像(祖師讃仰 DVD作品「親鸞伝」より)

親鸞聖人ロケ映像(祖師讃仰 DVD作品「親鸞伝」より)
DVD「親鸞伝」
『御伝鈔』と『御絵伝』をもとに、小早川好古画伯が三百枚の絵を追加。比叡山や琵琶湖、木ノ芽峠のロケーション映像を撮影。聖人自ら回顧するナレーションとダイナミックな音楽で迫力に満ちた作品です。

三枚目
信行両座
信行両座
「御絵伝」上巻二幅目 第六段第七図
「往生は信で定まるのか」、それとも「行で定まるのか」、「信」と「行」の座をもうけられ、多くの門弟方は当惑した面持ちでどちらの座にも着かれず、聖覚法院と信空上人は信不退の座に着かれました。そこへ遅れてやってきた法力房は、ためらうことなく信不退の座に着いた場面です。

右側に三百余人の門弟
縁側いるのが遅れてやってきた法力房
左上に法然上人(聖人)
左側で筆をもっているのが親鸞聖人

四枚目
吉水入室
吉水入室
「御絵伝」上巻一幅目 第二段第三図
聖人29歳の時。生涯の師である法然上人(聖人)と出遇う場面です。
右側が親鸞聖人。その左側に法然上人(聖人)です。



今月の写真の説明/文責・青森直樹

DVD「親鸞伝」は、報恩講で親鸞聖人を偲ぶ機会に本堂余間に掛けられる「御絵伝」の一つ一つを解説しています。

DVD「親鸞伝」上巻
DVD「親鸞伝」上巻
DVD「親鸞伝」下巻
DVD「親鸞伝」下巻

親鸞聖人シリーズ DVD作品

恩徳讃を収録したCD
仏教讃歌1

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2009年08月01日

お盆
お盆の行事は、『盂蘭盆経』というお経に由来しています。このお経には、お釈迦さまの弟子の目連尊者と餓鬼道に堕ちた母の物語が説かれています。
『盂蘭盆経』の教えが、祖先崇拝の儀礼を結びついてお盆の行事をなったとされています。こうして安居の終わった七月十五日に関連して、旧暦の七月や新暦の八月に、各地でお盆の仏事が大切に行われてきました。

フラッシュ画像について

1枚目
目連尊者と餓鬼道に堕ちた母(餓鬼草子)

目連尊者と餓鬼道に堕ちた母(餓鬼草子)
この絵は京都国立博物館に所蔵されいる「餓鬼草子」の一場面です。「餓鬼草子」は全長5メートル程の絵巻物で、餓鬼を救済する事がテーマとなった絵と詞の七段で構成されています。
この場面は『盂蘭盆経』の目連尊者と母親の物語です。左にいる目連尊者は餓鬼道に堕ちた母に食事を差し出すのですが、食事は炎に変わってしまう場面が描かれています。

絵巻物「餓鬼草子」 京都国立博物館

2枚目
餓鬼道に堕ちた母
餓鬼道に堕ちた母
目連尊者の母は餓鬼道に堕ちて、骨と皮ばかりに痩せ衰えていました。この餓鬼道という所は、お腹を空かせた者が住み、どれだけ食べても満足しない貪りの世界です。

3枚目
燃え上がるご飯

燃え上がるご飯
目連尊者は、お茶碗に山盛りに盛り上げたご飯を持って餓鬼道へと飛んで行き、母にご飯を差し出しました。「ウウウー」と、うめき声を出して母はそのご飯をひったくって食べようとすると、茶碗のご飯がパッと燃え上がりました。

4枚目
餓鬼への供養(餓鬼草子)

餓鬼への供養(餓鬼草子)
この絵は、「餓鬼草子」のテーマともなっている餓鬼救済の為の供養、施餓鬼棚をもうけて人々が供養している所です。右側の赤い施餓鬼棚に、多くの餓鬼が食事にありつこうと、走ってきて貪り食べています。

絵巻物「餓鬼草子」 京都国立博物館

今月の写真の説明/文責・青森直樹



お盆のCD・カセット 間野 大雄 『お盆』


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2009年07月01日

お盆
お盆とは正式には盂蘭盆といい、梵語のウランバナを音写したものです。
お盆の風習のはじまりは、千三百年程前(657年)、七月十五日に飛鳥寺の西で、須弥山の形を作って、盂蘭盆会を営まれたのがはじまりといわれています。その後、聖武天皇が天平五年(733年)、宮中で盂蘭盆会を修せられてから、だんだんと一般に伝わり、現在では宗派を越えて行われている仏教行事です。


フラッシュ画像について

1枚目
施餓鬼会(せがきえ)
施餓鬼会(せがきえ)
お盆は施餓鬼会ともいいます。施餓鬼会とは、餓鬼道に堕ちて苦しむ餓鬼に、食べ物を施して供養するという意味があります。
この絵には餓鬼の姿が描かれています。右側の黒くお腹だけが大きく突き出たのが餓鬼で、食べ物を求め、人間のあとをついてまわり、常に飢えに苦しんでいます。この様に餓鬼が黒く描かれているのは、餓鬼が人間の目には見えない事を表現しています。

絵巻物「餓鬼草子」 京都国立博物館

2枚目
須弥山石
須弥山石
この写真は明治三十六年に飛鳥寺近くから発掘された須弥山石です。本来は四段ですが、飛鳥寺近くからは三段しか発掘されませんでした。
須弥山とは仏教の思想で「世界の中心にそびえる山」を意味します。この須弥山の思想に基づいて、石の側面には山の彫刻がされ、また一番下の段には海の彫刻がされています。

「須弥山石」 奈良国立文化財研究所 資料館

3枚目
お墓参り
お墓参り
家族揃って故郷の墓に手を合わす。お盆は亡き人を縁として、自分の生き方を見つめ直す大切な機会です。

4枚目
五山送り火(大文字)
五山送り火(大文字)


今月の写真の説明/文責・青森直樹
参考資料 ビデオ『お盆』 すねいる発行

お盆のCD・カセット 間野 大雄 「お盆

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2009年06月01日

王舎城(ラジギール)
サルナートで最初の説法が終わり、お弟子をもたれたお釈迦さまは、ブダガヤを経て王舎城(ラジギール)に向かわれたのでした。
長い道中の間にも布教活動を続けられ、王舎城に来られた時には、千二百五十人のお弟子と共に王舎城に入られたのです。お釈迦さま三十七歳の時でした。
以来お釈迦さまは八十歳になられるまで、王舎城を初め、バイシャリ、サヘト・マヘト(祇園精舎)、サンカシャー、コーサンビーを拠点をしてインド各地に布教活動を続けられたのです。


フラッシュ画像について

1枚目
竹林精舎
竹林精舎
王舎城のビンバシャラ王がお釈迦さまのために寄進した竹林精舎。多くの竹が植えられています。
中央には日本山妙法寺から寄進されたお釈迦さまの像が安置されています。

2枚目
王舎城南壁
王舎城南壁

3枚目
酔象調伏
酔象調伏
ダイバダッタはアジャセ太子から象を借り、象に酒を飲ませてお釈迦さまを踏み殺そうとしむけました。王舍城の中で托鉢していたお釈迦さまや比丘たち、民衆に向かってその象は放たれ、象は次々に人々に襲いかかり、足で踏み殺し、鼻でくわえ、投げ飛ばし、いよいよお釈迦さまに近づいていきました。お釈迦さまの前に来た像は、今まで暴れ狂っていたのが嘘のように静まり、ひざを折り、お釈迦さまにひざまづいて礼拝しました。

一番右側には托鉢のため王舍城に入ってこられたお釈迦さま
右下にはお釈迦さまに礼拝する象
左下には凶暴ナーラギリ象
上の人々は二階や屋上に出て、お釈迦さまが殺されると言っている。

4枚目
ビンバシャラ王牢獄跡
ビンバシャラ王牢獄跡
「如是我聞 一時佛 在王舍城 耆闍崛山中 與大比丘衆 千二百五十人倶……」と始まる『観無量寿経』はここ王舎城が舞台となっています。アジャセ太子は父であるビンバシャラ王を牢獄に閉じ込め、一滴の水も与えずに殺そうとしました。


今月の写真の説明/文責・青森直樹
参考資料『お釈迦さまの地 インド』 文・写真 久保尚志 すねいる発行


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2009年05月01日

初転法輪
お釈迦さまの最初の説法のことを「初転法輪」といいます。
「転法輪」とは「法の輪を転がす」という意味で、真理の言葉が、車輪のように進むことに譬えたものです。
初転法輪によって、お釈迦さまの悟った法(真理)が初めて人類の上に開かれました。
 

フラッシュ画像について

1枚目
ガンジス河で沐浴する人々
ガンジス河で沐浴する人々
ベナレスは聖なる河ガンジスが流れ、古代から栄えた宗教都市で、今でも何千年の歴史そのままの姿を残しており、日の出の祈りで目覚め、沐浴から一日が始まるのです。

2枚目
サルナートのシンボル、ダメーク塔
サルナートのシンボル、ダメーク塔
ダメーク塔は、高さ43メートル、周囲36メートルの赤褐色の石とレンガで積みあげられたものです。

3枚目
初転法輪像(サルナート考古博物館・同出土・5世紀)
初転法輪像(サルナート考古博物館・同出土・5世紀)
サルナート考古博物館の傑作がこの彫刻です。お釈迦さまの手は「説法印」を結んでいます。

4枚目
五比丘の帰依(ナーガルジュナコンダ考古博物館・同出土・3世紀)
五比丘の帰依(ナーガルジュナコンダ考古博物館・同出土・3世紀)
お釈迦さまの右側に五人の比丘が、左側に梵天が、下には二匹の鹿がお釈迦さまの説法を聞きいっています。



今月の写真の説明/文責・青森直樹
参考資料『お釈迦さまの地 インド』 文・写真 久保尚志 すねいる発行


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2009年04月01日

お釈迦さまの誕生
4月8日は花まつりです。花まつりは灌仏会(かんぶつえ)や降誕会(ごうたんえ)ともいい、お釈迦さまの誕生を祝う仏事です。


フラッシュ画像について

1枚目

ヒマラヤ(ネパール領ポカラ付近)
ヒマラヤの麓にあるルンビニーがお釈迦さまの故郷です。
今からおよそ2500年前、マヤ夫人がルンビニー園を訪れた四月八日、お釈迦さまは誕生されました。

2枚目
七歩遊行
七歩遊行(ニューデリー国立博物館 ナーガルジュナコンダ出土 3世紀)
お釈迦さまがお生まれになった時、七歩歩かれたという物語の彫刻で、右側四人の帝釈天が捧げ持っている布には七つの足跡が刻まれています。
お釈迦さまは上部に傘の姿で表現されています。

3枚目
釈尊誕生
釈尊誕生(ルンビニー園マヤ堂内)
ルンビニー園(ネパール)のマヤ堂には、ビルマ政府から寄贈されたご本尊が安置されています。右側のマヤ夫人の足もとには生まれたばかりのお釈迦さまが立っています。そして、お釈迦さまの足もとには七つの足跡が刻まれています。

4枚目
釈尊誕生
釈尊誕生(ニューデリー国立博物館 サルナート出土 5世紀)
お釈迦さまがマヤ夫人の脇から生まれられるところです。お釈迦さまを抱いているのが帝釈天です。その左には七歩歩いて天上天下を指されたお釈迦さまの姿が刻まれています。


今月の写真の説明/文責・青森直樹
参考資料『お釈迦さまの地 インド』 文・写真 久保尚志 すねいる発行

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2009年03月01日

彼岸会
3月は春季彼岸会です。春分の日(3月20日)を中日として前後3日、計7日の間に行われます。
彼岸会はお彼岸さんとも呼ばれ、この間にお墓やお寺へお参りをして、亡き人を縁とし、自分の生き方を見つめ直す大切な機会です。

フラッシュ画像について


1枚目
道端の墓にも彼岸詣でかな
「道端の墓にも彼岸詣でかな」
と、一旬歌ったように、お彼岸ともなれば、砂 ぼこりにまみれた道端のお墓にまで、お花や線香が手向けられて、道いく人の目を見はらせます。

2枚目
山のあなたの空遠く、幸いすむと人のいう
「山のあなたの空遠く、幸いすむと人のいう」
という詩を作った人がありますが、およそ人間であるからには誰でも、明日に向かってかぎりない希望をかけているものです。
その希望の明日を、彼方の岸とするなら、彼岸とはそのまま希望の明日を指した言葉といえます。

3枚目
お寺で遊ぶお坊さんと子供たち
お寺で遊ぶお坊さんと子供たち

4枚目
お墓参りする親子
お墓参りする親子

今月の写真の説明/文責・青森直樹
参考資料 『さとりへの六つの条件』台本  文 久保秀導  画 山口吉旺

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